[ 本文章は、個展 「それぞれ部屋を仕立てる、凝らしの細部・呼吸の熱. 」に対して、所感として書いていただいた文章です。
本企画の図録(制作中)に掲載予定です。]
存在へのダイブ―京都・東九条における吉浦 嘉玲 展 2023に寄せて―
小川 伸彦 ( Nobuhiko Ogawa / 奈良女子大学文学部教授 / 社会学)
2024. 01. 04
「部屋ってなに?」「そら、部屋は部屋やん」「そやな」、、と普段ならわかったつもりになるところを、ぐっと踏ん張って立ち止まらせてくれる……。吉浦 嘉玲 個展〈それぞれの部屋、凝らしの細部・呼吸の熱〉(2023.4.28-5.3、京都市南区東九条で開催)は、そんな懐の深い作品展だった。
誰も住んでいない古い長屋2棟分が会場だ。ちなみに近年は、一般の家屋や生活の気配のある部屋をアート空間に転じる試みは決して少なくない。瀬戸内の直島のいわゆる家プロジェクトをはじめとして、各地で開催されてきたアートイベントに足を運べば、民家や蔵などをうまく活用した作品が必ず一つはあるといっても過言ではないだろう。
しかしそれらとの大きな違いは、本展が生活の痕跡や記憶の残る家屋や部屋を舞台としつつも、それを通して<部屋とは何でありうるか>という抽象度の高い問いを追求している点にある。
■お茶会
では部屋とはなになのか?、、、答えを知りたい、、、、と前のめりな気持ちで展示会場に足を運んだのだが、そこで待っていたのは、一種の放置プレイであった。
予約の時刻ほぼぴったりに到着したが、会場家屋は施錠されていて人の気配もない。5分ほどするとだんだん心配になってくる。スタート地点はどこかよそだったのか、と焦り、知ってそうな人に電話をしてみるが応答がない、、、。
と、その刹那、後ろから声がかかった。「いやあ、お待たせしてすみません。吉浦です。どなたでしたっけ?」と、アーチスト本人の登場である。いかにも寝坊して今つきましたという風だが、今思えば、どこかで僕を観察していたのかもしれない、、、。とにかく、素早く建物内から木製の長椅子をだしてきてくれて、「準備しますので、少しお待ちください」とのことだ。また待つのである。
本人だけが中に入り、内側からたぶん再度施錠してなにやらごそごそやっている(気がした)。そのあと本人が出てきて、ようやく会場入り口に招き入れられ、どこまで土足で入ってよいかや、最初にお茶の時間があることなど、これからのセッションの説明をしてくれる。
しかしお茶はすぐには始まらない。「お茶の準備をしますね」的な説明のあと、本人は再び出て行ってしまうのである。それも、なんと、入り口を外側から施錠しているような気配(というか音)がする。閉じこめられたわけだ。勝手口が開けっぱなしなのでコンプライアンス的にはセーフな配慮はあるが、随分な仕打ちである(笑)。
かなりたってから戻ってきてくれたので、さあお茶かと思いきや、今度は中二階の水屋に上がったり降りたりと、まだまだ準備は続くのである。
そのあとようやく、茶器など一式を格納した高さ1mほどの木製の櫓のようなもの [fig.1] が床の間から部屋の真ん中に引き出され、野点のような雰囲気でお茶が振る舞われる。最初に吉浦がやったのは、鴨居のあたりにおいてあった水注を降ろしてきて、木製櫓の最上部にあたる陶板にポトポトと水滴をおとす儀式である。[fig.2] 本展のテーマの一つが「湿気」だということで、水道水ではなく、この地域に残っている井戸の水だということだ。わけのわからん儀式だが、わかっているような顔をして眺めていた。
いや、ほんというと、わからないでもない。太古から川・海・湿気・雲・雨・地下水と姿を変え循環し続け、我々の体にも入り込んでその何%かをなすH2Oに、敬意を払わずに何かをするなんて文字通り神をも恐れぬ所業なのである。打ち水をするかのように乾いた部分には湿り気を与えるところから、何事も始まるのである。棋士藤井聡太がいつも初手の前にお茶を口にするのと事は通底している。勝負の前には、喉にも陶板にも潤いが必要なのだ。
茶器を納めた段の横板には、雰囲気に合わない写真が貼りつけてある。防災訓練の風景のようだ。尋ねると、訪問先の地域のカレンダーの一部で、たしかに防災訓練の様子だという。[fig.3] 場所は、静岡県の大井川沿いの川根とのことで、淹れてくれるのもそこが産地のお茶だという。
たまたま僕も少し知っている地域だったので、大井川鐵道の機関車トーマス汽車のことなど、幸い話も弾んだ。いわゆる伝統的な茶席でも道具や掛け軸について話をしたりするらしいから、こんな風に棚絵に転用されたカレンダーの写真から話が広がるのもたぶんアリなのだろう。
このあと、今回の展示の趣旨や理屈を記した方形の紙(コンセプトペーパー)[fig.4] を渡される。文字がぎっしりである。あとで数えてみると片面で2,000字ほどもある。尋常ではない情報量である。これはいったいどういうこと?アートの展示ではなく講義かなにかなのか、と顔には出さないが嫌な予感が走る、、。
■ことばとアート
つい嫌な感じがしたのは、自分(小川)のせいだ。"言葉でアートの説明をしてほしくない"、と普段から思っていることが原因だ。格好よくネーミングするなら、おいらは〈言葉/アート分離派〉なのである。この派閥の主張はごくシンプルで、"言葉では表現できないものがあるからこそアートにするんでしょ。だったら言葉に倚りかからないでほしい"というものだ。だから鑑賞する際も、言葉に助けてもらいたくない。
どんなアート展でも感じることだが、厳格な分離派には、まず作品のタイトルがけっこう邪魔である。作品だけと向き合いたいからである。それなら見なければいいはずなのに、ついまず目をやってしまう自分もいて、自己嫌悪とも戦わなくてはならない。いっそ全作品を「無題」にしてほしいくらいだ。
なので紙に印刷した解説を作家本人から渡されるなどは、普段の自分にとっては論外のはず、、、なのだが、こんなにぎっしり書かれたものを、凝った感じのレイアウトで見せられると、ちょっと気持ちがぐらっと来てしまったというのが、正直な感想である。ここまで徹底的に言葉責めされると、分離派の根拠もだんだん揺らいでくる。
アートは本来、自由なものであって、言葉であろうとなんであろうと、表現のために使えるものはなんでも使う。貪欲にリミッターを解除し、媒体の境界線をどんどん踏み越えて進んでいく。それでいいんじゃないのか、と思えてきたのである。
もちろん僕の分離派マインドが急に瓦解してしまったわけではない。一般論として、言葉に安易に逃げ込んでほしくないという気持ちはまだある。でもこの吉浦展における言葉の運用は、そんな安直なものではなさそうなのである。
筆者(小川)のこの文章が掲載される図録には、まさにいま問題にしているコンセプトペーパーも掲載されているはずなので、みなさんもぜひ確かめていただきたい。その興味深い内容には後で触れることとして、まずは文字のほうではなく造形的な作品をみていこう。
■シリーズと作品
展示空間内を歩いただけではわからないのだが、リストなどによると、作品はおおきく5つのシリーズに分類されている。すなわち、〈版画シリーズ〉 〈写真シリーズ〉 〈陳列棚シリーズ〉 〈建築模型シリーズ〉 〈図案シリーズ〉 である。
作品をふたつほど具体的に紹介しておこう。たとえば、〈建築模型シリーズ〉のひとつで西棟にある"模型No.5” [fig.5] は、1辺10センチほどの立方体の箱である。
側面には千切り絵の要領で新聞記事や不動産の広告などが貼り重ねられている。上面には黒い腕と手のひらのようなものが10本ほど放射状に描かれた上に、灰色の小石や黄色いなにかのキャップ(実は耳栓らしい)などが置かれている。さらに、顔の形をした土鈴が端に配され、箱の全体がこの土鈴の身体であるかのような具合になっている。この立方体は2つのやや大ぶりの石のうえに据えられているが、見方次第では、この擬人化された土鈴クンの2本の足にも見える。
〈陳列棚シリーズ〉としては、”棚 No.3” [fig.6] を詳しく紹介しておこう。これは、2会場のうち東棟の西壁に設置された横長の白い箱型の戸棚である。高さ約60センチ、横幅約80センチ、奥行き20センチほどの、比較的大ぶりのもので、上から三分の二ほどのスペースは、もともとあった引き戸がなく、内部が見える。棚は上下二段。それが更に仕切りで左右に分割されている。
置かれているものを列挙してみるなら、まず上段左には、ずんぐりと丸みを帯びた青い陶製の容器が右に寄せて置かれている。小さな取っ手のある青銅器のような形状だが、植木鉢に転用され緑の若葉が顔をのぞかせている。背面には濃い緑の茎かコードのようなものが曲線を描いて戸棚の奥板にはりついている。 上段右はやや広めのスペースで、3つのものが据えられている。まず右端にあるのは、白地に赤い縦縞の模様のある小ぶりのマグカップだが、取手の部分がなくなっている。真ん中には、テープがひと巻き。光沢のある白いもので、直径は4センチほどだろうか。こっちに転がってきそうな向きに置いてある。左端にあるのは非常に濃い緑の、おそらく茶筒のようなものだが、白い荷造りロープが二重に巻かれ蝶々結びで縛られている。間仕切りを挟んでさきほどの植木鉢と接する位置取りだ。
では下段へいこう。左のスペースは上段とは逆に中心線より左にものが寄せて置いてある。それは真っ黒の筒状の紅茶缶で、ロゴは隠れて見えないがおそらくマリアージュ社製だろう。その背後にはごく小ぶりの木製の仏龕のようなものが、これも同じく奥板にもたせかけるように置いてある。
下段右のコンパートメントは、間仕切りでさらに左右に、2:1のプロポーションで分割されている。その「2」の方にあたる左部は、中心部を空白のままのこす形で左翼に缶、右翼にマグカップが置いてある。このセレクションは上段と同じであるが、缶は和風の茶筒ではなく、青い光沢のある方形の紅茶の缶であり、黄色いマグカップは手がちゃんとついた完形である。このマグカップは蓋付きで、陶器ではなくプラスチック製かもしれない。さらにその後ろには、くしゃりと畳まれたグレイの布巾かハンドタオルのようなものがある。それは、奥板と間仕切り板がつくりだすコーナーにもたせかけられ、首が抜け落ちた雛人形であるかのような十二単衣的な立体感を保ちつつ、襟周りがこちらを向く形に置かれている。
そして間仕切りの右側、つまり「1」の広さのコンパートメントにあるのは人形だ。白い腹と耳の以外はグレイ系のテディベアのようなものだが、未開封のジップロックのようなビニール袋に入ったままである。それなりのサイズがあるので、この比率「1」の空間にぎゅうぎゅうに押し込められているような有様だ。
実は、この上下の棚の左端だけは、棚板がなく、上から下まで幅10センチほどのワンボックスの空間となっている。しかしそこは、布のカーテンがかかっていて、中は見えない。
説明が後先になったが、この戸棚は、引き戸とは別に、おそらく後補と思われるカーテンレールが、両端をヒートンで固定する方法で設置されている。すこし気になるのはこのカーテンの布である。なぜか二重になっており、白地に黄色やピンクの花模様のあるほうは丈も十分でカーテンの用をなしうるまっとうなものであるが、その上半分には、明るいブルーの別の布が被せられている。人形用の袖付き上着がこちらに背中を向けているような風情で白い裾模様のようなものも見える。
棚全体の最下段は、別立ての細いスリットのような空間であり、そこには模様ガラスの引き戸も半分ほど残っている。置かれているのは、虹色の缶コーヒー(BOSSの限定仕様)であり、横置きされているのが部分的に見える。模様ガラスの内側にも明るいグリーンやオレンジがあしらわれた方形のなにかがあるようだが、モザイクがかかったように滲んでみえるだけである。
さて、これら全体をどう見ればよいのか。雑然とガラクタが適当に置いてあるだけ、に見えなくもない。しかし、上記のように言語化して列挙することで見えてくるのは、レヴィ=ストロース風の構造分析的解釈の可能性である。
まずヒントとなるのは茶筒系だ。全部で3つあるがすべて属性が異なっている。
仮に、上段のものをA、下段左をB、下段右をCとするとこの3つは下記のような構造的な差異を帯びている。
A:緑茶用/円筒/被せ蓋/紐掛けあり
B:紅茶用/円筒/突出蓋/紐掛けなし
C:紅茶用/方形/被せ蓋/紐掛けなし
ここからわかるのは、用途/形態/蓋方式/紐の4要素に関して、様々なパタンの組み合わせが試みられ、全く同じ属性を有したものが重複しないように配分されている点だ。
これはマグカップにおいてもいえる。上段をX下段をYとするならそれぞれの特徴は下記となる。
Y:取手なし/陶製/蓋なし/図案模様
X:取手あり/プラスチック製/蓋あり/キャラクター模様
ここでもやはり、あえて属性が相反しあうようにチョイスされているといえるだろう。
これは全体としての材質面にもいえる。登場しているのは、陶製/金属製/繊維・布製/木製/ビニール製/植物であり、あらゆる素材がもれなく顔をだしている。
繊維・布のジャンルでは、用途面で重複のないチョイスがなされている。縛るもの(ビニールロープ)、拭き取るもの(布巾)、覆うもの(カーテン)、形をなすもの(ぬいぐるみ)というラインナップである。
さらに深読みすれば、この棚ひとつで茶会が完結できるように設えられているともいえる。茶筒とマグカップがちゃんとあるだけでなく、紅茶や緑茶の原料である茶葉を彷彿とさせるような生きた植物も用意されているからだ。
そしてこのようにみてくると、最下段の缶コーヒーのポジションも見えてくる。それはまず、3つの茶筒系に対して、<自ら淹れるのではないもの(=工業製品)>という相違をぶつけるものである。同時に、珈琲という新領域の挿入によって、この戸棚空間における嗜好品的飲料の地平を茶葉系を超えて拡張させてもいる。その意味でこの缶コーヒーは、意味論的構造の上での欠落したピースを埋める一項であるともいえるのだ。
そのいっぽうで謎なのは、白いテープのロールである。
ここまで、つい謎解きに熱くなってしまった、、、、。吉浦の狙いや意図は別のところにあるのかもしれないが、構造論的にみれば、偶然とは思えないチョイスやしつらえがなされていることも確かだ。これらの作品づくりを通して、吉浦はいったい何を実現しようとしているのだろうか。
→後日談
●小川付記[2024.4.22]陳列されていたモノのうち、AとCは茶筒ではかなったことを後日知りました。Aは深緑の厚めのゴム板を丸めたもの、Cは薄紫で半透明の名刺ケースを立てたものでした。「蓋」と思い込んだのも誤認でした。ですので、前掲の構造分析的解釈のABCを列挙した部分のうち、用途や蓋の形状は訂正します。茶葉系VSコーヒー系、の部分も勇み足でした^^;。ただ、茶筒が計3個ではなく1個のみになったので、「様々なパタンの組み合わせが試みられ、全く同じ属性を有したものが重複しないように配分されている」という解釈は残したいと思います。
■存在/「ただそこにある」こと
吉浦の作品を見て、またコンセプトペーパーの内容を反芻するうちに頭に浮かんでくるのは<存在>という二文字である。これは吉浦が、「ただそこにある」という一項をコンセプトペーパーに設けていることにも通じている(以下、「 」を付したフレーズや単語はコンセプトペーパーからの引用)。
一般的にいっても、<芸術>と<存在>は幾重もの深い関係にある。たとえば写生やデッサン。それは3次元の存在を2次元の存在に変換することだ。写実的な彫刻作品なら、3次元を3次元のままに、である。いっぽう、未だこの世にないものを芸術が独自に生み出し、存在せしめるということも行われる。さらには、すでに存在はしているが目に見えないもの、つまり観念などに可視的な存在性を与える働きも芸術は担いうる。<平和像>などがその例だろう。
では、吉浦の場合はどうか。対象となるのは「事物」であり、それは、「オブジェクト」「他人」「私が,思う私自身」からなるとされる。そして特徴的であると思えるのは、何かを表現する手段として「事物」の存在性を描こうとしているのではなく、存在そのものへと「事物」を還元しようとしているかに見える点だ。このことを吉浦は、「ここにこの色や形があり、質感があり、言葉がある。それを実惑する自分がいる、自分もその一単位である、そう認められること」と表現している。
これは一見シンプルなことにように思える。しかし「事物」が「ただそこにある」という相貌を発揮するように仕向けることは、容易なようで実際にはかなり周到な準備と道具立てが必要となる。
なされるべきは、「事物」をコンテクストからほどよく切り離す作業だろう。たとえばマグカップは、雑貨店にあれば売り物、台所にあればそこの住人の日常の什器、ゴミ捨て場にあれば壊れた廃棄物……などと、置かれている環境(=コンテクスト)に照応して意味づけが変容する。新聞紙(情報→資源ごみ)にしても、指紋(汚れ→証拠)にしても、置かれた状況ごとに意味が変わるコンテクスト依存的な「事物」である。
しかし「事物」には、そのように変容してしまう部分だけでなく、なにか不変の核があるはずだ。それがその「事物」の「ただそこにある」性だとすれば、そこへの還元のためには、様々にまとわりついてくるコンテクストを剥ぎ取る作業が必要となる。
しかし一足飛びに、金属・土・紙の繊維といった物質性へと「事物」を分解してしまうのはやりすぎだろう。<存在>の要素は抽出できるが、もはやマグカップでも新聞でもなくなるからだ。そうではなくて、そのモノであらしめつつ、かつ、雑音部分だけを消し去るというほどよい作業が必要となる。
この課題に従来の芸術家はどのように向き合ってきたのだろうか。
たとえばセザンヌの静物画。そこにおいてりんごや水差しは、特殊な静謐感に包み込まれる。用途性などのコンテクストは消えさり、オブジェクトの「色」や「形」や「質感」だけが蒸留されて観る者の前にたち現れる。
別の方法は、M.デュシャンの作品に見て取れる。たとえば、木製の椅子に逆さまに立つ自転車の前輪。しつらえの妙によって、車輪は用途性から解放されている。しげしげと新鮮な目で眺めうる対象へと変身した「事物」は、徐々にその存在の核を開示し始める。
こうもり傘とミシンを併置したマン・レイの写真も同じような効果が発揮された例といえるだろう。そこでは、セザンヌとデュシャンの方法が合体させられているとみなすことも可能だ。
これらに比して吉浦が用いるのは、"観念枠の駆使"とでもいうべき方法である。より具体的に言えば、「部屋」という概念的な枠の動員である。吉浦が望むのは、車輪をひっくり返して椅子にネジで固定するような力づくの表現ではなく、「事物」がじわじわと存在に戻っていく環境を整える黒子のような役回りであり、そこで有効性を発揮するのが「部屋」観念なのである。
吉浦は、「私にとって作品世界とは、作者の『部屋』である」としたうえで、「私の部屋においては、「事物」とそれを置く「状況」によって、事物が何者でもなく『ただそこにある』を感じとることができる《部屋の様相》を仕立てる」と述べる。
せっかちな外野席からは、<部屋=作品世界なら、回りくどい表現をせず、なぜシンプルに「作品」と呼ばないのか>という声が聞こえてきそうだ。しかし吉浦が必要としているのは、「事物」を存在へと還元しうるような特殊な装置なのである。それは、空間でもあり時間性もあり、そこに置かれることで「事物」が存在を回復できるような一種のマシンである。
そしてそれは仮説のようなものでもある。つまり、そのようなマシンがあるはずだというイマジネールな見通しを持ちながら制作を行うことで、実際にもそれ(=「部屋」)が立ち現れるのである。様々な「事物」をいっしょに入れれば、事物間にコミュニケーションが生じるとともに、それぞれが存在をとりもどすような一種の孵卵器。それが「部屋」マシンなのだ。それは未来(=未だ来たらざるもの)の装置でありつつ、「部屋」がありうると思念して事物を配置しえた瞬間に現在化するような、自己成就的な構成物である。
しかし、諸事物を適当に置いて、これが「部屋」だと念じれば、「存在」への還元装置が実現するわけではない。そこには秘教的ともいえるチューニングが求められるのであり、それを吉浦は、「丁度」といった言葉で表現している。そしてまさによい塩梅に「丁度」よく事物が集まり配置された瞬間に、この<部屋マシン>にスイッチが入り、事物たちは存在の森や海へと飛びたつのである。さきほど細かく紹介した戸棚も、まさに飛行中の部屋マシンだといえよう。そしてそこには一定の「熱」や「湿度」も発生しているはずだ。
それはSF的なビジョンであり、タイムマシンと同じくまさか実現するとは思えない類の開発構想なのであるが、吉浦はそれを現前させ、展示にこぎつけているのである。
■「他人」の参与
ここで確認しておきたい重要なことがひとつある。
それは、吉浦の定義において「事物」には、「オブジェクト」だけでなく「他人」と「私自身(=作家)」が含まれている点だ。これこそが、本稿の冒頭で言及した<放置プレイ>やお茶会にも関わっているので考察しておこう。
本展を見るために日時を予約してセッションに参じる者は、単なる鑑賞者という特権的なポジションを知らぬ間に失い、作品の一部に組み込まれる仕組みになっている。作品の一部になるということは、吉浦の世界においてはとりもなおさず「部屋」の一部になることを意味している。つまり、会場であるTAROハウスに足を踏み入れた瞬間から、もしくは、入り口前のベンチに座ることを薦められたその時から、鑑賞者は「他人」枠という資格で吉浦の「部屋」(=作品)の「事物」となるのである。
「部屋」に置かれた「事物」は人間であっても、存在へと還元されるはずだ。おそらくここに、<放置プレイ>の必然性が伏在している。一人きりにされて放って置かれること。そのことで、来訪した鑑賞者は展示物を眺めるだけの者ではなくなり、自らをも眺める立場におかれる。"一体、自分はココで何してるんだ?"といった疑念が頭をもたげる時、人はだんだん存在そのものへと戻り始める。とり囲む作品たち(=「部屋」たち)は、新しくやってきた「事物」であるその人と交わることで動き出し、家屋全体が一つの部屋となり、新たな作品となるのである。
■作家自身の「事物」化
ほどなく茶会がはじまり、作家自身も部屋の「事物」としてふるまい始める。したがって来訪者は、吉浦に冷たく操られるパーツなのではなく、むしろ、吉浦とともに「部屋」づくり(=作品制作)を行う共同制作者となるのである。
そして吉浦の制作は実はこれにとどまらない。会期の最終日に、ある行為が行われたからだ。それは、すべての来訪者が帰った後、日が暮れた時間帯に窓際の床板を一畳分ほど剥がして執り行われた。
床下にあるのは、この家屋の地盤をなす九条土である。この黒い土は、この地域でのみ採取されてきた塗り壁の材料だが、いまや非常に希少であり、この家屋の改修時に偶然発見されたものである。そして吉浦は、この黒土の床下へとダイブを行うのである。
床板を乗せていた枕木状の角材に、鉄棒体操を行う格好で組みつき、床下に向かって前転し、この角材の下をくぐって土まみれになって戻ってくる。この所作が何度も反復されたり、床下からかなり大きな石のような塊を引き上げ、仰向けに寝た胸の上にラッコのようにそれを据えたりもする。さらには、剥がして立ててあった畳サイズの床板を、もとに戻す過程で角材の上に仰臥し、床板をまるごと裏返して布団のように被ったりもする。
セルフ撮影された動画を見る機会を得たが、それはなんとも異様な光景である。しかしながら、ぎこちない躊躇がなく、流れるように一連の動きが継起してゆく。このスムーズさには、おそらく吉浦の過去のダイブ経験が効いている。
それは、ロンドンでのゴミシリーズともいうべき"me<defunct> in rubbish <defunct>” [fig.7] という2018年の作品群だ。そこでは、住宅地の一角や工事現場などだろうか、とにかくアクセス可能な集積場にある実際のゴミ(廃棄物)の山が相手だ。よれよれのバスタオル、歯ブラシ、ハンガー、タンスの引出し、各種の空ボトルやスニーカーなどの堆積に向かって吉浦は繰り返し突入し、その中をのたうち回り、個々の廃棄物を手に取り、頭にかぶり、タンスの舟を箒のオールで漕ぐなどの見立てや陳列を行い、再び逆立ちの姿勢から廃棄物の山に体まるごと崩れ落ちるなどの動作が延々と執り行われる。ロンドン各所の廃棄物の山でこれを行ってきた吉浦だからこそ、日本の家屋の床下へのダイブもなし得たのだろう。
ロンドンで吉浦は2019年にもエレベーターにおけるパフォーマンス作品“I will give you a candy (if you push B)” [fig.8] 制作している。準備されたのは、ある実際のビルのエレベーター内に吉浦が設置した、階数ボタンパネルの精巧な偽物である。気づかずに偽物のB階ボタンを押した人とに、先乗りしている吉浦がいきなり飴を渡す。ほかの階の場合はラッパをいきなり吹くなどして、乗ってきた人を翻弄し続ける。何が起きているかの理解もできず、地下(B階)に行きたくても行けないひとにとってはいい迷惑なわけだが、吉浦も次に自分がなにをすべきかは相手が押すボタン次第なので、完全な受動態におかれている。それは、全く見知らぬ他者たちの指先による行為の海へと、主体性を奪われつつダイブし続けるパフォーマンスだともいえるだろう。
そして、今回の床下へのダイブの撮影もひとつの作品だとすれば、それは定義上「部屋」だということになる。つまり、そこで相まみえるモノたち、つまり土も石も角材も、「部屋化」を契機に「ただそこにある」だけの存在そのものへと差し戻されるわけである。
それは、「事物」のひとつである吉浦自身も例外ではないはずだ。ダイブによる部屋化の瞬間に、吉浦からは、性別・国籍といった属性や、キレイ汚いといった観念とともに、すべて剥がれ落ち、ただの「存在」へと作家自身も還ってゆくのだ。
連想・妄想を広げるなら、このとき吉浦は、海女でありデニム生地でもある。
海女の喩えのほうはわかりやすいかもしれない。ダイブして獲物を捕まえてくる海女の行為が、吉浦の動きと似通っているからだ。海の生き物の生態・分布や潮の流れに身を委ねるという受動性も共通している。
しかしもっと重要だと思えるのは、海女が海中の獲物を全部引き上げてくるのではない、という点だ。
陳列棚作品などをみればわかるが、吉浦が制作の素材とするのは、"そこらへんのもん"としか言いようのない紙・布やモノやその切れ端である。ただし、"そこらへんのもん"を全部引き上げてくることは不可能だ。つまり、一定の取捨選択によって選ばれたそこらへんのもんが作品化され部屋化されているのである。
一般論になるが、取捨選択には2パタンある。"かけがえのないこれ"が選ばれる場合と、"ほかでもよかったけどこれ"が選ばれる場合だ。
前者はいわばエリート選抜であり、後者は暫定的・架構的だ。そして、吉浦の作品群をみていると、どうやら後者の選択が行われている感触が強い。"そこらへんのもん"の海に飛び込んで、何でもいいわけではないが、とりあえずいけそうなものを掴み取ってくる。吉浦はそんな海女であり、獲物(=取っ手のないマグカップや黄色い耳栓など)を活かして、作品という部屋がつくられる。
ただし、この掴み取りは狭い意味でのダイブ系作品の中で行われているわけではない。むしろ、普段の作品づくりが常にダイブなのであり、モノたちの存在の海に飛び込んでは暫定的な選択が実践されているのだ。ここで大事なのは、これがあくまでも暫定的だということではないだろうか。
まるでそれは、博物館の石器や土器の陳列ケースのようである。眼の前に展示されている遺物はそれしかない一点ものではない。収蔵庫には同様のモノがごまんと眠っているのだ。
存在全般の収蔵庫も同様である。そこにダイブした吉浦は、「とりあえず持ってきて組み合わせました。悪くない感じでしょ」と提示しつつ、他にも、無限の組み合わせの可能性がありえたことを仄めかす。
吉浦の各作品は、それぞれが単体で自律した存在でありつつ、非在のものをも開示するという二重性を湛えている。そこに無いものを使って次に作品をつくるのは、吉浦ではなくわれわれかもしれないのだ。
吉浦はこのように海女でありつつ、同時にデニム生地でもある。
よく知られているように、ジーンズの製造工程のバリエーションに、"ストーンウオッシュ"がある。実際に岡山で工場見学をしたことがあるのだが、ストーンウオッシュ工程では人間が楽に入れるほどの巨大な円筒缶を横にした機械が用いられる。そこに小石とジーンズを放り込んで混ぜ合わすプロセスが風合いを産みだすのである。
水で洗うのではなく、文字通り石で洗うのだ。ここで面白いのは、通常のウオッシュ(洗浄)は何かをキレイにするのに対し、ストーンウオッシュでは、傷めて汚すことがすなわち洗浄だという点だ。そのことで、キレイすぎるデニム生地に、自然な使用感や存在感が醸し出される。
作品制作として吉浦が行うゴミや床下へのダイブも、どこかしらこのストーンウオッシュに通じている。自分という生地を、ざらつく異物たちと混ぜ合わせ、不自然ともいえる方法で傷めつけてつつ「洗う」こと。そのことで吉浦は、自分という存在そのものを掴みとるためのダイブを行っているのではないだろうか。
■むすびに代えてーアートって何?
成功であろうと失敗であろうと、その光景は、そこまでやる必要があるのかというほどの、壮絶なダイブである。床下やゴミに釘などが残っていれば、大きな怪我につながりかねないようなリスクも伴っている。エレベーターの同乗者からの強い抗議といったリスクも想定される。
なぜそこまでやるのかを吉浦本人に問うたところ、そこには時間軸にかかわる4つのレイヤーも関係しているとのことであった。番号で整理するなら、レイヤーⅠやⅡは眼前のことや短期的なことであり、レイヤーⅢやⅣは中長期的な展望にかかわる。そして、つい先のこと(ⅢやⅣ)を考えてしまいがちな自分(吉浦)に、ⅠやⅡを生じさせる働きをするのが展示などの行為だという。レイヤーⅢとⅣは絶対に消えるわけではないが、Ⅰ・Ⅱに集中し、それが一時的にでもⅢ・Ⅳを追い越すだけの「実感」を得る方法のひとつとして、ダイブがあるようだ。
今の世の中は、刹那的に行動する(=レイヤーⅠやⅡ)ことを戒め、将来設計に基づき計画的に生きる(=レイヤーⅢやⅣ)ことを強く推奨する傾向が強い。しかしその逆効果として、今を生きている実感が希薄化し新たな悩みが生じがちなのかもしれない。そんな一般的な話ではなく、吉浦の場合は、より深いなにかがあるのかもしれない。
いずれにしても、あそこまで壮絶なダイブ行為が必要となるのはなぜなのか。吉浦を衝き動かすものを余人が理解することは容易ではない。
しかしその一方で、吉浦のダイブを何が可能にしているのかを考えることはできる。身も蓋もないことだが、それこそが<アート>なのではないだろうか。
もしこの世に<アート>というジャンルや観念がまったくなかったならばどうだろう。ゴミや床下へのダイブはかなりの困難を伴うのではないだろうか。
ロンドンのダイブ現場に警官がやってきて尋問されても、<これはアートパーフォーマンスです>と言えば、その警官は、理解はしないまでも納得し、黙認してくれるかもしれない。実物の警官が来なくても、作家の内面にいる日常常識的ポリスに対しても、<これはアートなのだ>と、堂々と説明ができるだろう。しかしもしこの世に<アート>がなければ、いろいろとややこしいことになりそうだ。
もちろん、ゴミや床下にダイブしたいという欲求は、アートの次元よりも深いところにあるマグマのようなものであろう。マグマにしてみれば、虎視眈々と、どこから吹き出してやろうかと常に地上を窺っているわけだが、その際に、アートというの噴火口はちょうどよい出口としての役割を担ってくれる。それは、あらゆる奇矯な行為が可能になる火山である。
もしこの火山に出会わなければ、吉浦のなかのマグマは出口を失い、迷子になっていたかもしれない。そういう意味で、作家は一つの救済装置を得ているといえるような気がする。そして同時に吉浦の実行する行為は、その斬新さのゆえに、火山そのものに彩りや新たな可能性を与えているといえるだろう。昭和新山のようにムクムクと、吉浦山が姿を現しつつるのだ。
つまりここには、救い救われという往還運動がある。
「部屋」マシンを駆使し、「事物」としての"オブジェクト/他人/自分自身"が「ただそこにある」存在へと還りうる「状況」を構築する吉浦とは、アートに救われつつアートを救うアーチスト、だと言えるのではないだろうか。
[fig.2] 湿度の作法
[fig.3-a] 喫茶棚の横板 ( けんどん )
[fig.3-b] 喫茶棚の横板 ( けんどん )
[fig.8] “I will give you a candy (if you push B)”, mixed-media, performance, 2019 / リンク